1.31.2009

Relation

最近のおじいちゃんのこと

■ 1月初旬からまた入院。息が苦しいと言ってたので病院に行くと心不全であることが判明。心不全って脳梗塞とか心筋梗塞とか、そういう死因と直結するような病気だと思っていたので、そんな病名をカジュアルな感じで患っていたことに驚きをかくせなかった。当の本人はふらふらになりながらも「ココアがうまい!」というコメントを残して長い入院生活を再会させた。

■ 治療のおかげでかなり具合はよくなるが、元気になれば病院側へのバッシングが始まり、検査を拒否し、おむつの交換までも拒否するようになる。しまいには「みかんを盗まれた」という誰も得をしない、厳密に言えば盗んだ奴がみかん一個分得をするだけの、嘘か本当かも立証できないことを僕にそっと報告するというようなことも起こる。ちょうどその日に、検査拒否にしびれを切らした病院側が強制退院の措置をとる、そして本人は何も知らず、用心のためか何かのポーズなのか、カントリーマームを枕元に置いて寝ていた。

この頃から、僕は、自分のおじいちゃんという1人の人間の生きる意味を考えるようになった。

再入院した時点で、杖をついてなんとか歩けてた力も気力も失せ、自分でトイレに行く事もできなくなった。
家に帰ったら、庭の掃除をして正月の準備をして、あれこれやろうと思っていたけど、何もできなかった。
なんとか現状に抗おうと不良じみたことをしてみたが、家族に心配をかけるだけの意味のないことだと気付いた。

今、彼は何を生きる目的としているのだろうか。
生きる目的なんかなくても、大概の人は自分と自分の関係のある社会の中に存在していて、その関係が意味を作って、小さな喜びがスパイスになってごまかしごまかし生きているはず。
自分とその他の関係が無くなり、自分で小さな喜びを生み出す力を失った人間に、何があるのか。

僕はずっと考えている。
僕がおじいちゃんにとっての「関係」の1つであるならば、どうしたら小さな喜びを生み出す力になれるのだろうか。
恥ずかしながら、この歳になるまでその関係作りを怠ってきた。完全にコミュニケーションは断絶されてきた。今でもその壁は高い。
ちょっとづつ始めようと決めて、ココアを飲ますこと、意味もなくベッドに腰掛けて一緒に過ごすことを当面のルーティンとしている。

■ その効果が出たのかどうかはわからないが、今日部屋を訪れた時には、しきりに僕の昼食の心配をして、看護師さんに「孫に昼食を与えてやってくれ」と頼んでいた。煩わしくなり、「昼食頼んどいたから大丈夫」なんてその場しのぎをしてしまったものだから、いざ僕が帰ろうとすると、「昼食はまだ来てへんがな、さっき頼んだがな」ということになり、自分の首をしめるような形になってしまった。

そのやりとりがうれしく、僕も「関係」を求めている1人なんだと気がついた。

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